Angel-#08

#8-5

「おい、見たか今の」

対岸沿いで酒を楽しんでいた初老の男の一人がそう言った。

「大変だ、誰か落ちたぞ。後を追ってまた一人飛び込んだぞ!」
「あれはハートフォードさん宅の小屋だ。そう言えば昼間会った時に、ジョンが日本から娘っこが来てるって嬉しそうに話してたけど、今のがまさか・・・」
「呼びに行ってくる!」

言うなり一人の男が駆け出していた。残りの男たちも皆二人が落ちた現場へと向かった。周りで音楽を楽しんでいた若者達も、そのただならぬ様子に急ぎ足で彼らの後を追った。

圭は想子を腕に抱え、岸へと向かって泳いでいた。

地面に上がり、ぐったりとした想子を横にしてその場に寝かせた。意識は無い。息も無い。マウス・トゥー・マウス。圭は必死で人口呼吸を繰り返す。想子の唇は冷たかった。湖の水温は、まだ泳ぐことができるほど温かなものではなかったのだ。胸を押し続ける圭の手にも、かじかんだ感覚のみが伝わってきていた。

若者の一人が携帯電話でなにやら早口に喋っている。

「大丈夫そうか?」
「今救急車を呼んだぞ、安心しろ」

心配そうに皆が見守る中、ゲホッと水を吐き出して想子は息を吹き返した。
おお~、と言う歓声と共に全員の口から安堵の息が漏れた。
その瞬間、圭も力尽きて想子の側に倒れこんだ。

「Please…call…Hartford…please」
「大丈夫だ、今呼びに行っている」

それを聞いた圭は、安心と度重なるジェットラグによる疲労で、そのままそこに倒れこんでしまった。

「大変だ!二人共気を失うぞ」

遠のいて行く意識の中で、圭は薄っすらとジョンとキャサリンの声を聞いた気がした。

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#8-4

薔薇色の空はまだ続いていた。幻想的な、空。

「想子ちゃん、さ」
「はい?」
「想子って誰が付けた名前なの?」

現実ではない所で初めて逢った人と、現実離れした場所にいる。圭はそんな感慨に耽っていた。

「母親は私が子供の頃『想像力の豊かな子になりなりますように』って言ってた。でも父親は『オモイヤリのある子になりますように』って付けたって。『思う』っていう字は違うんだけど、誰かを想う優しい人になりますようにって。結構大きくなってから聞いたの。私自身は父の説の方が好きなんだけどね」
「二人から別々の想いを込めてつけられたんだ」

想子の話しに、妙な温度差がある事に圭は気が付いていた。

「違うの。あの二人の言う事で、一致した意見なんて一度も聞いた事がないだけの話し」

そう言った顔には、どこか独特の憂いを帯びた淋しさが漂っていた。

「ジョンとキャサリンにも同じ質問をされてね。もっともあの二人は漢字が読めるわけじゃないから、意味だけ伝えたんだけど。そしたら素敵だわって、感激してくれたのよ」

圭にもあの二人のそんな様子が目に浮かぶ気がしていた。

「私あの二人に会って初めて、家族ってこんな風に温かいものなんだなって知ったの」

圭のもしかして、と言う思いはただの違和感では終わらない事実のようだった。

「想子ちゃん、ご両親はご健在なの?」
「生存は、してる。一応」

そう紡ぎだす口調は、やはりそう軽いものではなかった。

「でもね、別居してるの。もうずーっと。最近になってやっと離婚話になって、現在は調停中らしいのよね」

さらっと言ってのける想子のその声は、普段の ― 彼女特有の真綿に包まれたようなコロコロとろした暖かな ― 声音ではなかった。

「連絡は?」
「ごくたまに父親に電話するくらいで、母親とはもうずっと取ってない」
「聞いても、いい?」

圭はゆっくりと注意深く、想子の様子を伺いながら訊いた。

「うん」

それは想子にとって余りありがたくない質問になる事は解りきっていた。それにも関わらず想子は肯いた。覚悟を決めた様にとてもしっかりと。

「どうしてお母さんとは連絡を取ってないの?」

想子は遠くのドアをしばらく見つめた後、一言一句をかみしめるようにこう言った。

「許せないから、どうしても」

それは圭が想子から初めて聞く冷たく、そして強い口調だった。

「あの人はね、散々家の中を引っ掻き回したあげく出て行ったの。私だけを置いてね」

想子の両親は共に歯科医だった。ただ母親の方は想子が生まれてからは主婦業に専念していたのだが。

想子が覚えている限り、小さな頃から二人の仲はあまり良くなかった。小競り合いをするたびにどこか神経質なところのある母はぴりぴりし、伴って家の雰囲気もいつでも落ち着かない物となって行った。それでもなんとか形だけの家族を、二人とも繕おうとしていたのだろう。

妹のが生まれるまではずっと港区のマンションに住んでいた。そして末の弟が生まれた時手狭になり、母の要望で横浜の一軒家に越した。そして父は横浜で新たに歯科医院を開業していた。

そんな夫婦の状況でなぜ他に二人も子供を設けたのかをずっと疑問に思っていた時期もあったが、

「あの人は変わろうとしないのよ」

と言う母の一言から想子が推測したのは、子供が増えればきっと何かが変わってくれる、と母は願っていたのではないかと言う事だった。

そして最初の爆弾が落ちたのは想子が9歳の時だった。それまでは小競り合いこそすれ、両親は子供の目の前で猛烈に罵り合う喧嘩などはした事がなかった。

もう、その時すでに二人は限界を超えていたのだろう。

普段は温厚な父が大声で怒鳴り散らし、母は掴みかかって父のTシャツを裂いた。父が引き離そうと母の頬を張る。負けじと母も父の髪をひっぱる。

今でも目に焼きついて消えない光景。

その時想子は必死だった。泣きながらやめて、と訴えた。それから事態を把握しきれずに泣き叫ぶ妹と弟を必死に覆いかぶさりかばっていた。

「私がしっかりしなきゃ。こんな思いをするのは自分だけでいい」

その時から想子はそう決め、二人には何も見せないように、痛みにさらされないようにとずっと二人を守ってきた。

両親の激しい取っ組み合いは、後にも先にもその一度きりだった。しかし、それによって何かが改善されたわけでもなかった。家の中でも用件を述べる以外二人は何も話そうとはせず、父は帰宅すると自室に籠もった。その行動が母の神経を逆撫でし、さらに家の雰囲気は緊張感でいっぱいになって行ったのだった。

そして想子が中学に上がる年 ― 弟が小学生になる年 ― 母は家を出た。自分だけを残して

母が想子にむけて最後に放った言葉は

「あんたは利口な振りをして、どうせお父さんの味方なのよ」

と言う痛烈な一言だった。

般若のような母の顔。

解っていない、この人は。何も解ろうとしていない。

それは、母がいなくなる時になってやっと想子が理解した事だった。
想子がどれだけ家族を愛していたか、また一つに戻れるなら、と自分の役割を貫いてきたか。それを母は決して解ろうとはしない人だと言う事を。

父の言い分も母の言い分も、想子は解っていた。解った上で、どちらにも角が立たないように平等に振舞ってきたつもりだった。

その努力の何もかもを理解せずに、彼女は平然と行ってしまったのだ。彼女の代わりに想子が守ってきた大切な物を全て奪って。

想子は目頭に熱いものを感じていた。泣いちゃ、いけない。泣くほどの価値など無い事なのだから。心の中でそう自分に言い聞かせていた。

「なんで、想子ちゃんだけ置いて・・・」

圭はやっとの事で喉の奥から声を絞り出した。

「そういう人なのよ。いつも自分だけが一番大事で、自分だけが世界で一番大変な人なの。被害者なの。だからその基準に達しない物事に関しては、理解を示そうとしない。ううん、理解する事が出来ないのよ。子供なの、ただの」

先程のキャサリンの言葉が圭の胸をよぎった。
「私は私が守ってきた全ての物を、一瞬にして失くしたのよ」
 
まだ小さかった弟の新品のランドセル。そのランドセルを背負った弟をおぶって遊んでいた自分。母はなぜ、自分だけを置いていったのだろう。

「それから一度も会ってないわけ?」
「法事とかそういうところで顔を合わせたりはしているけど、やっぱりなんだか今一、かな。妹とはそうでもないけど」

想子は自分の発する声のとげとげしさに気付き、一転して精一杯の明るさを帯びた声を作り圭に向けた。

「妹はなんて言うか、天下泰平タイプな子でね。しょっちゅうあっちとこっちとを行き来してたから、割りと上手くは行ってるの」

それもあの子があの子なりに悩んだ結果だったのだろうと想子は思う。

「だから向こうの情報も、妹から色々聞き出したりして」

あくまでも軽い調子になるように想子は続けた。

「ごめんね、暗い話しをしちゃって」
「いや」

どれだけ辛かった事だろう、と圭は思う。男女を問わす子供にとって母親は特別な存在だ。どんな事があっても無条件に受け入れてくれるはずの存在。一時的な感情だったにしろ疎まれてしまったなんて。思春期を迎えようとする少女には余りにも酷な仕打ちだ。

「お母さんさ」

これ以上想子がこの話題を続けたくないのは圭にも解っていた。

「その後自分から想子ちゃんにコンタクトを取ろうとはしなかったの?」
「してたみたいね。妹を通して何回も手紙をよこしたり、会いたがってるって話しは聞いてたけど」
「応じなかったの?」
「当たり前よ。手紙も全部読まずに捨ててた」

後悔しないわけがない、と圭は思った。それに想子だって、

「本当はちゃんと会って話したいんじゃないの?今でも」

想子の表情が一瞬強張ったのを圭は見逃さなかった。

「そ、そんなわけないじゃない。何を言っても理解してくれない人間に、何も話すことなんてない」

想子は少し興奮気味に頭を振った。

「そうじゃなくてさ」

圭は想子の前に回り両肩にそっと手を置きながら言った。

「自分を見て欲しいんじゃないの、想子ちゃん。ちゃんと『お母さん』って彼女を呼んで、自分の事を真正面から受け止めて欲しいんじゃないの?俺にはそう聞こえるよ。お母さんだってそうだ。何年も何年もきっとずっと苦しんでる」

想子は圭の腕を感情的に振り払うと立ち上がった。

「・・・そうよ、逃げてるのは私よ。いつもいつも。絵からだって音楽からだって、結局は逃げ出しただけなの!」

そしてそのまま壁沿いに圭から遠のいた。

「嫌なのよ、もう。見たくもないし聞きたくもないの、これ以上。離婚さえ成立すれば全てが終わる。私には無関係な事として生きて行けるのよ!」

想子はテラスの扉を開けると、そのまま勢い良く外へ飛び出して行った。
今の自分はどんな顔をしているのだろう、と思う。今までジョンとキャサリンの前でしかこんな風に振舞った事はなかった。圭には見られたくない、今の自分のこんなに醜い顔を、姿を。

「待って!」

想子の後を追って、圭もテラスへと飛び出した。

「それじゃあ何も解決にならないじゃないか。離婚したって、離れたって、親子は親子だ。血のつながりはそんなに容易いな物じゃない。想子ちゃんはこれからも一生そうやって目をつぶって、自分に蓋をして暮らして行くつもりなの?」

想子はテラスの手すりに片手を乗せると、がっくりとその場に腰を落とした。

「血のつながりがあるからこそ、見えない呪縛があるからこそ、余計苦しいんじゃないの」

圭に背中を向けたまま、想子は弱々しげにそう呟いた。

「弟さんは?」

別れた当時弟はまだ6才だった。何年かに一度、それも片手で数える程しか会った事の無い弟には、もう自分は他人に近い存在なのだろうと想子は思っていた。親戚が集まった中で特にこれと言って話すこともなく、目を合わせる事もなく、彼にとって自分は遠い存在になっているのだろうと感じていた。それでも想子にとっては、会うたびに大きくなっている彼の姿を目にすることが、彼がきちんと生きてそこに存在している事実を知る事が、何よりも嬉しかったのだけれど。

だけどもう、それすらも叶わなくなる。

想子は手すりにかけた手に力を入れ、振り向きながら立ち上がった。

「いいのよもう。お願いだから放っておいて。これ以上私の中に入ってこないで!」

そう想子が叫んだ瞬間、彼女の背後でバキッと言う音がして、想子の体が一瞬浮いた。そしてそのまま美しい弧を描きながら、頭から湖へと落ちて行った。

「想子ちゃん!」

慌てて圭が駆け寄った時、水面には想子の羽織っていた白のカーディガンだけが残されていた。
圭は急いでジョンのジャケットを脱ぐと、ためらうことなく湖へと飛び込んだ。

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#8-3

ミントグリーンにペイントされた壁に、黒いペンキで「35」と書かれている木製の小屋がジョンとキャサリンのそれだった。

一階部分はガレージのようになっていて、ボートがいつでも湖に出られるように置いてある。

二人は外側にしつらえてある階段で二階に上がった。
中はまだ軽く掃除がしてある程度で、埃こそ立たないものの、テーブルと椅子、それから棚があるだけで他には何も無かった。左の壁にはテラスに出る扉があり、入り口を入って正面の壁には窓があった。

二人は当然の事のようにテーブルと椅子を通過すると、窓辺へと近づいた。窓のへりに両手をかけ、空を見上げながら圭が言った。

「幻想的だね」
「薔薇色の空、だよね」
「覚えてる?この前話した夢の話」
「例の天使の夢?」
「うん」

圭は空を見つめ続けている。

「その時の空によく似てるんだよね」
「そう」

想子はどこか感慨深げに答えた。

「もっとも、あっちの方はもっと化学合成ぽかったけど。こっちは天然物だもんね。この一瞬しかこの色は無いんだ」

その圭の言葉に、ぶっ、と想子は吹き出した。

「相変わらずの表現力ね。化学合成って言う単語が出てくるのが圭さんらしいわ」

そう言うと窓の横の壁に背をあずけて、さもおかしそうに笑った。

「他にはどんな物が見えたの?」
「なんだか変わった建物とか細長い木とか。そうそうヘルシンキの空港でフィンランド全域のパンフレットを貰ったんだけど、それを見て驚いたよ」
「どうして?」
「ここよりもっとロシアに近いところの教会の写真だったんだけど、そっくりだったんだ、夢で見たものと」

レンガ造りの建物に尖った屋根やたまねぎ型の黄金のモニュメント。圭は目を閉じて再びあの夢を思い出していた。

「ネオ・ゴシック様式ね。帝政ロシア時代の名残よ」

「さすがだね。俺は全然知識がないもんだから、なんだか昔のイギリスっぽいな、ってその夢を見た時は思ってたんだけどね」
「不思議ね」

静かに想子が呟く。

「君と出逢うために、不思議な事ばかりが起こっている気がするよ」

想子は黙っていた。

そしてどちらとも無くするするとそのまま床に座り込んだ。

「どうしてたの、あれから」

床についた想子の指は白くて細く、少しだけ痩せたような印象を圭に与えた。

「仕事が、入ってたんだ。しかもCM撮りでスペイン。ありえない事なんだけど自分でもすっかり忘れていて。あの日、君と別れた日の夕方にマネージャーから電話がかかってきて明日ですよって言われてさ。生きた心地がしなかったよ、ほんと」
「うん」
床に置かれた想子の手の上に、圭がそっと自分の手を重ねた。感じ取る体温、心臓の鼓動。

「会いたかったよ、ずっと」
「私も」

二人は唇を重ねた。

「練習再開はどうしたの?」
「成田から監督に電話した。4日だけ復帰を延ばしてもらったよ」
 
***

人の流れがざわめく成田空港。フィンランド行きのチケットを手にした圭は、監督に電話をかけていた。

「もしもし」
「雉子波です」
「圭か。どうした。移籍の話しがまとまったのか?」

事は早急だ。いつまでも引き伸ばすわけにはいけない。だから監督は休暇中の圭からの連絡は、それに関する事だと思ったのだろう。

「いえ、すみません。違うんです。でもそれに関連している事は確かです。実は一つお願いがありまして」

そこで圭は一息つくと改まって切り出した。

「練習復帰を、少しだけ延ばしていただけませんか。どうしても考える時間が欲しいんです。きちんとした形で答えを出すために」

それは本当の事だった。もう半分以上自分の中で答えが出ている事を、圭は自分でも承知していた。でも今のままではしっかりとした確証が持てない事もまた事実だった。想子の事も自分の事も、不安定なままでは全ての答えが出せなかった。

「・・・わかった。お前の事だ、信頼はしているからな。ただし4日が期限だ。いいな」
「ありがとうございます。わがまま言ってすみません」

圭から安堵の息が漏れた。
次に圭は急いで自分の代理人に電話をかけた。

「雉子波です。お忙しいところすみません」

いや、と言って増山は言葉を返した。彼には圭が初めてイタリアに移籍した時から世話になっている。

「決心がつきましたか?」

彼もまた監督と同様、圭の答えを待っている人間の1人だった。

「正直に言いますと、まだなんです。でも気持ちが固まっている事は確かです。ただ、時間が欲しいんです。あと少しだけ、返事を待っていてもらえませんか。2、3日中には正式にお返事しますので、話を進めて貰う方向で待っていて下さい」

自分でも言っている事に矛盾があるのは解っていた。でもこれが今の圭の正直な気持ちだった。

「わかりました。万全の体制で待っていますよ」

圭は再びありがとうございます、と言って電話を切った。

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#8-2

どれくらいの時間が経ったのだろう。

圧倒的な自然の前で、想子がなす術も無く自分の存在を感じ取っていた、とき。一瞬の様でもあり、また、自分が生まれた時からずっとここにいる様にも感じられる時間。この圧倒的な恵みはここに想子が存在するのがごく当たり前の事の様に、全てを優しく優しく包みこんでいた。

「綺麗・・・」

水面を境に上下に同じ様に広がって行くピンクとオレンジのグラデーション。その広がりの中に、心が混ざり合いながら溶けて行く。きらきらと光る水面、高く伸びる空。その両方に向かって想子の心は無心に広がりを見せていた。悲しみも切なさも愛おしさも、すべてが混じり合って行く。人の気配などまるで感じられない情景。ついたため息のひとつも、ふわっと溶けて柔らかくはじける。それはとても暖かな感触だった。
指の先までしっかりと満たされていくように。

「想子ちゃん」

夢の続きかな、と想子は思った。妖精の見せる、甘やかな夢。

「待たせて、ごめん」

その声のする方へと顔を向けると、想子は焦点の定まりきらない二つの瞳でその朧気な輪郭を必死で捕らえようとした。

「圭・・・さん?」

妖精の見せる幻なのかな、と再び思いながら。

「待たせて、ごめん」

はっきりとしたその声は、紛れもなく今現在「ここ」にしっかりと響く現実のものだった。
朧気だった輪郭は、心の中で何度も描いていた人物をはっきりと映し出す。

「圭さん!どうしてここに・・・」

想子はあわてて立ち上がった。

「言っただろ、俺はそんなに無責任じゃないって」

それは力強い言葉だった。

(やっと、会えた。)

想子同様に、それは圭にとっても長い長い時間だった。居てもたってもいられない自分のもどかしさを抱えたまま旅立ってから6日目。やっとこの手に触れられる距離に想子がいる。そう思うだけで、圭の全てはいっぱになっていた。

「なんで・・・!」

「隣り、座ってもいい?」

想子は無言で頷いた。

二人の間を、静かな時が流れ始める。暖かさを伴わないそれは、重たく、ピンと張り詰めた冷たい空気。

「ごめんね」

想子の横でうつむきながら圭が口を開いた。

「・・・うん」

訊きたいことは山ほどあった。あふれ出そうな気持ちを抑えながら、全てをうやむやのまま抱えて日本を出てきた、ここに居る自分。言いたい事は沢山あったはずなのに、実際に目の前にいる圭を一目見た途端、言葉よりも確かなものを想子は感じ取っていた。何よりも彼はここにいる。こうして自分を探し出してくれている。それがもう全ての答えだった。

ふと、想子は圭の羽織っているものが、ジョンの上着である事に気がついた。

「ジョンの上着だ」

そう言いながら、ジャケットの肩の当たりにつけられたどこかのバスケットボールチームのワッペンに、軽く触れた。

圭は顔をあげて隣の想子を見た。想子は穏やかに微笑みながら圭を見つめていた。

「来てくれて、ありがとう」

それから想子はまたも謝罪の言葉を口に出しそうな圭の唇を右手でそっと塞ぐと、顔を左右に振った。

「モ・ウ・イ・イ・ヨ」

そして改めて真っ直ぐに圭の顔を見た。
圭もその想子の行動にゆっくりとうなずき一言「ありがとう」と述べた。
辺りの空気が段々と暖かな物へと戻っていく。

「この上着、余りにも夏々し格好でこっちに来ちゃったからジョンが着せてくれたんだ」
「ちょっと大きいね」

確かに恰幅のいいジョンの上着は、サッカー選手にしては小柄な圭には少し大きかった。

「子供の頃田舎にいる時に、天気の良い日に干した布団を取り込んだ後の山にうずもれるのが大好きでね。あったかくて香ばしいお日様の匂いが大好きだった。良く母親に汚れるって叱られたんだけど、なんだかそれと同じ匂いがするんだ、この上着」
「うん」

と、想子は嬉しそうに頷いた。

「そう言う人よ、ジョンって。陽だまりの様な人」

一方の想子は、白いコットン素材の長袖のワンピースを着ていた。腰の辺りがきゅっと絞られたタイプ、日本で言うところの「高原等の避暑地にぴったりな感じ」のものだ。それに同じく白の手編みのカーディガンを羽織り、白いサンダルを履いている。

その装いを見て圭は

「なんだか今日は大人しそうに見えるね」

と伝えた。すると想子は

「大人し『そう』ってなによ。せめて『大人しく』見える、位には言って欲しいわね」

と言って子供のように口を尖らせてみせた。

「今日の昼間、キャサリンと街まで出てね、『あなたにこれきっと似合うわ!』って言って買ってくれたの。着心地は抜群よ」

そして立ち上がると圭の前でくるっと軽やかに一回転した。

確かにそれは想子によく馴染んで見えた。回りながら風になびくスカートと長い髪、そして化粧っ気の無い美しい素肌。

「ところで、この先にジョンとキャサリンのボート小屋があるんだけど、よかったら一緒に行ってみない?」

返事をする代わりに立ち上がると、圭は想子の手を取った。二人はゆっくりと歩き出す。
つないだ手と手にあふれ出す、そのぬくもりを感じながら。

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#8-1

「夏とはいえ外は寒いんだからね。気をつけなさいよ」

キャサリンの言葉に、はーい、と返事を一つして想子は表に出た。
午後9時を回っているのにも関わらず、外は依然として明るい。フィンランドと言ってもこのぐらいの緯度では完全な白夜になる事はなく、落ちないままの陽がいつまでも夕暮れを奏で続けていた。

キャサリンとジョンの家は、ラハティの街の中心から少し歩いた郊外にあった。豊かな森と湖が広がっている田園地帯。家々の間隔は遠くも無く近くもなくと言ったところで、幼い頃に出逢う絵本の中から出てきたような、素朴で可愛らしい物ばかりだった。

ラハティのメインストリートは、その道をどちらに辿っても程なく湖に出る。それは最高の散歩コースになっていた。

想子はその道を波止場のある湖の方へとゆっくりと歩いて行った。
その湖は、さらにもっと北の湖沼地帯への船旅の起点にもなっている。沢山のボートやヨット、そして湖畔にはそれと同じ数のボート小屋、点在するサウナ、それから木製のベンチやテーブルがしつらえられていて、長い長い夏の昼間を堪能するありとあらゆる人々 ― 若者から老人まで ― がのんびりとコミュニティを作り、音楽を聴いたり酒を酌み交わしたりしてそれぞれの時間を楽しんでいた。

キャサリンとジョンのボート小屋は、そことはちょうど対岸沿いにあった。
湖を回ってボート小屋とへたどり着く前に、想子は手近なベンチに腰掛けて水面を眺める事にした。薔薇色の空を反映してどこまでもオレンジとピンクに広がる水面は、今まで全く見たことの無い静観さを保っていた。

淡く柔らかく、そして美しい。

両腕を伸ばしてふーっと一つ深呼吸をした。そこにある全てのエネルギーが自分の中に綺麗に入り込んでくるのを感じながら。

周りの音は何も聞こえない。酒を酌み交わす人々の陽気な笑い声さえも。

想子はしばらくの間、そこでもたらされる恵みの尊さを全身で受け止めていた。

***

午後9時半。突然の来客に戸口に立ったのはジョンだった。ドアを開けたジョンの目に飛び込んできたのは、にわかに緊張した面持ちで戸口に立つ青年の姿だった。

「どなたかな?」

優しい口調でジョンは尋ねた。

「夜分に恐れ入ります。朝上想子さんの友人の雉子波圭と申します。こちらに想子さんがいると伺って、失礼かと思ったのですがお訪ねさせていただきました」

イタリア語ほど流暢ではないにしろ、圭も少しなら英語を話せた。
ジョンは目をまん丸にしてこう聞き返した。

「ミスターケイ・キジナミ?あのサッカー選手の?」
「はい」

と圭はうなずいた。するとジョンは

「ヘイ、キャス!ちょっと来てごらん」

と大声でキャサリンを呼んだ。「どうしたのそんなところで」と言いながらやって来たキャサリンも、圭の姿を見るなり同様に目を丸くして、

「まあ想子ったら、こんな素敵なボーイフレンドが訪ねてくるなんて一言も言ってなかったわよ」

と茶目っ気たっぷりに圭と握手をした。

「私はキャサリン、そしてこちらは夫のジョン。想子とは長い付き合いよ。彼女は今散歩に出ているの。さあ入って」

と言って圭の緊張を解きほぐす様に二人は圭を温かく家の中に招き入れた。

「それにしても、こっちに来るにしてはまるで適していない格好ね」

圭の軽装を見てキャサリンは言った。灼熱のスペイン、そして夏の日本からそのまま来てしまった為、圭は半袖シャツにジーンズと言うかなり夏向きの装いだったからだ。

「すみません、こちらについての情報がまるでないまま来てしまったもので」

と肩をすくめた。

「とにかくお疲れでしょう。それに体も冷えているだろうし。こちらで少し温まって」

そう言うとキャサリンは圭をリビングに案内し、ドライフルーツが沢山入ったずっしりと重みのあるパウンドケーキと、温かいコーヒーを出してくれた。

いわゆるカントリーハウス、と言った趣の木の温もりを感じ取れる部屋。寒い冬に備えて暖炉もある。壁には手作り風のパッチワークやフェルトクラフトが飾られていた。

「私のお手製よ」

とキャサリンが言って運んできたケーキは、甘すぎず、どこか懐かしさを覚える味がした。

ジョンとキャサリンは圭の向かいに座った。

「すみません、突然。ありがとうございます」
「サプライズは慣れっこよ、ね」

いたずらっぽく笑いながら、キャサリンとジョンは顔を見合わせた。

「想子はあなたについて何も言ってなかったけど、あの子はあなたが来る事は知っているの?」
「いいえ」

コーヒーカップを皿に戻しながら圭は言った。そして所在なげにカップをいじりながら更に続けた。

「約束を、していたんです。会う約束を。それが僕の一方的な理由で連絡も取れないまま急に会えなくなって。だから」
「だから追いかけてきたの?」

コクン、と圭はうなずいた。

少しの間、三人の間には心地よい沈黙が流れていた。
その間キャサリンは黙ってにこやかに圭の顔を見つめていた。

「あなたなら、大丈夫ね」

圭ははっとカップから目を上げた。

「あなたはとてもいい顔をしているもの」
「どういう、意味ですか?」
「あの子はね、急いで大人にならなければいけない部分があったの。だからその分、今でもどこか危なっかしいところがあるのね。でも、あなたならきっと大丈夫だわ。私には判るの」

キャサリンはそう言うとにっこりと微笑んだ。

圭が彼女のその言葉の意味を解りあぐねていると、キャサリンは、うふふ、と笑いながら

「あの子を迎えに行ってあげて。うちのボート小屋に行くって言ってたから、道を教えるわ」
と言った。

「はい」

そう言って圭が立ち上がると、ジョンが自分の上着を持って来て圭に着せた。

「外は冷えるぞ」

暖かな匂いのするその上着からは、想子を大切に守ってきた人達の温もりが、じんわりと伝わって来るようだった。

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