薔薇色の空はまだ続いていた。幻想的な、空。
「想子ちゃん、さ」
「はい?」
「想子って誰が付けた名前なの?」
現実ではない所で初めて逢った人と、現実離れした場所にいる。圭はそんな感慨に耽っていた。
「母親は私が子供の頃『想像力の豊かな子になりなりますように』って言ってた。でも父親は『オモイヤリのある子になりますように』って付けたって。『思う』っていう字は違うんだけど、誰かを想う優しい人になりますようにって。結構大きくなってから聞いたの。私自身は父の説の方が好きなんだけどね」
「二人から別々の想いを込めてつけられたんだ」
想子の話しに、妙な温度差がある事に圭は気が付いていた。
「違うの。あの二人の言う事で、一致した意見なんて一度も聞いた事がないだけの話し」
そう言った顔には、どこか独特の憂いを帯びた淋しさが漂っていた。
「ジョンとキャサリンにも同じ質問をされてね。もっともあの二人は漢字が読めるわけじゃないから、意味だけ伝えたんだけど。そしたら素敵だわって、感激してくれたのよ」
圭にもあの二人のそんな様子が目に浮かぶ気がしていた。
「私あの二人に会って初めて、家族ってこんな風に温かいものなんだなって知ったの」
圭のもしかして、と言う思いはただの違和感では終わらない事実のようだった。
「想子ちゃん、ご両親はご健在なの?」
「生存は、してる。一応」
そう紡ぎだす口調は、やはりそう軽いものではなかった。
「でもね、別居してるの。もうずーっと。最近になってやっと離婚話になって、現在は調停中らしいのよね」
さらっと言ってのける想子のその声は、普段の ― 彼女特有の真綿に包まれたようなコロコロとろした暖かな ― 声音ではなかった。
「連絡は?」
「ごくたまに父親に電話するくらいで、母親とはもうずっと取ってない」
「聞いても、いい?」
圭はゆっくりと注意深く、想子の様子を伺いながら訊いた。
「うん」
それは想子にとって余りありがたくない質問になる事は解りきっていた。それにも関わらず想子は肯いた。覚悟を決めた様にとてもしっかりと。
「どうしてお母さんとは連絡を取ってないの?」
想子は遠くのドアをしばらく見つめた後、一言一句をかみしめるようにこう言った。
「許せないから、どうしても」
それは圭が想子から初めて聞く冷たく、そして強い口調だった。
「あの人はね、散々家の中を引っ掻き回したあげく出て行ったの。私だけを置いてね」
想子の両親は共に歯科医だった。ただ母親の方は想子が生まれてからは主婦業に専念していたのだが。
想子が覚えている限り、小さな頃から二人の仲はあまり良くなかった。小競り合いをするたびにどこか神経質なところのある母はぴりぴりし、伴って家の雰囲気もいつでも落ち着かない物となって行った。それでもなんとか形だけの家族を、二人とも繕おうとしていたのだろう。
妹のが生まれるまではずっと港区のマンションに住んでいた。そして末の弟が生まれた時手狭になり、母の要望で横浜の一軒家に越した。そして父は横浜で新たに歯科医院を開業していた。
そんな夫婦の状況でなぜ他に二人も子供を設けたのかをずっと疑問に思っていた時期もあったが、
「あの人は変わろうとしないのよ」
と言う母の一言から想子が推測したのは、子供が増えればきっと何かが変わってくれる、と母は願っていたのではないかと言う事だった。
そして最初の爆弾が落ちたのは想子が9歳の時だった。それまでは小競り合いこそすれ、両親は子供の目の前で猛烈に罵り合う喧嘩などはした事がなかった。
もう、その時すでに二人は限界を超えていたのだろう。
普段は温厚な父が大声で怒鳴り散らし、母は掴みかかって父のTシャツを裂いた。父が引き離そうと母の頬を張る。負けじと母も父の髪をひっぱる。
今でも目に焼きついて消えない光景。
その時想子は必死だった。泣きながらやめて、と訴えた。それから事態を把握しきれずに泣き叫ぶ妹と弟を必死に覆いかぶさりかばっていた。
「私がしっかりしなきゃ。こんな思いをするのは自分だけでいい」
その時から想子はそう決め、二人には何も見せないように、痛みにさらされないようにとずっと二人を守ってきた。
両親の激しい取っ組み合いは、後にも先にもその一度きりだった。しかし、それによって何かが改善されたわけでもなかった。家の中でも用件を述べる以外二人は何も話そうとはせず、父は帰宅すると自室に籠もった。その行動が母の神経を逆撫でし、さらに家の雰囲気は緊張感でいっぱいになって行ったのだった。
そして想子が中学に上がる年 ― 弟が小学生になる年 ― 母は家を出た。自分だけを残して
母が想子にむけて最後に放った言葉は
「あんたは利口な振りをして、どうせお父さんの味方なのよ」
と言う痛烈な一言だった。
般若のような母の顔。
解っていない、この人は。何も解ろうとしていない。
それは、母がいなくなる時になってやっと想子が理解した事だった。
想子がどれだけ家族を愛していたか、また一つに戻れるなら、と自分の役割を貫いてきたか。それを母は決して解ろうとはしない人だと言う事を。
父の言い分も母の言い分も、想子は解っていた。解った上で、どちらにも角が立たないように平等に振舞ってきたつもりだった。
その努力の何もかもを理解せずに、彼女は平然と行ってしまったのだ。彼女の代わりに想子が守ってきた大切な物を全て奪って。
想子は目頭に熱いものを感じていた。泣いちゃ、いけない。泣くほどの価値など無い事なのだから。心の中でそう自分に言い聞かせていた。
「なんで、想子ちゃんだけ置いて・・・」
圭はやっとの事で喉の奥から声を絞り出した。
「そういう人なのよ。いつも自分だけが一番大事で、自分だけが世界で一番大変な人なの。被害者なの。だからその基準に達しない物事に関しては、理解を示そうとしない。ううん、理解する事が出来ないのよ。子供なの、ただの」
先程のキャサリンの言葉が圭の胸をよぎった。
「私は私が守ってきた全ての物を、一瞬にして失くしたのよ」
まだ小さかった弟の新品のランドセル。そのランドセルを背負った弟をおぶって遊んでいた自分。母はなぜ、自分だけを置いていったのだろう。
「それから一度も会ってないわけ?」
「法事とかそういうところで顔を合わせたりはしているけど、やっぱりなんだか今一、かな。妹とはそうでもないけど」
想子は自分の発する声のとげとげしさに気付き、一転して精一杯の明るさを帯びた声を作り圭に向けた。
「妹はなんて言うか、天下泰平タイプな子でね。しょっちゅうあっちとこっちとを行き来してたから、割りと上手くは行ってるの」
それもあの子があの子なりに悩んだ結果だったのだろうと想子は思う。
「だから向こうの情報も、妹から色々聞き出したりして」
あくまでも軽い調子になるように想子は続けた。
「ごめんね、暗い話しをしちゃって」
「いや」
どれだけ辛かった事だろう、と圭は思う。男女を問わす子供にとって母親は特別な存在だ。どんな事があっても無条件に受け入れてくれるはずの存在。一時的な感情だったにしろ疎まれてしまったなんて。思春期を迎えようとする少女には余りにも酷な仕打ちだ。
「お母さんさ」
これ以上想子がこの話題を続けたくないのは圭にも解っていた。
「その後自分から想子ちゃんにコンタクトを取ろうとはしなかったの?」
「してたみたいね。妹を通して何回も手紙をよこしたり、会いたがってるって話しは聞いてたけど」
「応じなかったの?」
「当たり前よ。手紙も全部読まずに捨ててた」
後悔しないわけがない、と圭は思った。それに想子だって、
「本当はちゃんと会って話したいんじゃないの?今でも」
想子の表情が一瞬強張ったのを圭は見逃さなかった。
「そ、そんなわけないじゃない。何を言っても理解してくれない人間に、何も話すことなんてない」
想子は少し興奮気味に頭を振った。
「そうじゃなくてさ」
圭は想子の前に回り両肩にそっと手を置きながら言った。
「自分を見て欲しいんじゃないの、想子ちゃん。ちゃんと『お母さん』って彼女を呼んで、自分の事を真正面から受け止めて欲しいんじゃないの?俺にはそう聞こえるよ。お母さんだってそうだ。何年も何年もきっとずっと苦しんでる」
想子は圭の腕を感情的に振り払うと立ち上がった。
「・・・そうよ、逃げてるのは私よ。いつもいつも。絵からだって音楽からだって、結局は逃げ出しただけなの!」
そしてそのまま壁沿いに圭から遠のいた。
「嫌なのよ、もう。見たくもないし聞きたくもないの、これ以上。離婚さえ成立すれば全てが終わる。私には無関係な事として生きて行けるのよ!」
想子はテラスの扉を開けると、そのまま勢い良く外へ飛び出して行った。
今の自分はどんな顔をしているのだろう、と思う。今までジョンとキャサリンの前でしかこんな風に振舞った事はなかった。圭には見られたくない、今の自分のこんなに醜い顔を、姿を。
「待って!」
想子の後を追って、圭もテラスへと飛び出した。
「それじゃあ何も解決にならないじゃないか。離婚したって、離れたって、親子は親子だ。血のつながりはそんなに容易いな物じゃない。想子ちゃんはこれからも一生そうやって目をつぶって、自分に蓋をして暮らして行くつもりなの?」
想子はテラスの手すりに片手を乗せると、がっくりとその場に腰を落とした。
「血のつながりがあるからこそ、見えない呪縛があるからこそ、余計苦しいんじゃないの」
圭に背中を向けたまま、想子は弱々しげにそう呟いた。
「弟さんは?」
別れた当時弟はまだ6才だった。何年かに一度、それも片手で数える程しか会った事の無い弟には、もう自分は他人に近い存在なのだろうと想子は思っていた。親戚が集まった中で特にこれと言って話すこともなく、目を合わせる事もなく、彼にとって自分は遠い存在になっているのだろうと感じていた。それでも想子にとっては、会うたびに大きくなっている彼の姿を目にすることが、彼がきちんと生きてそこに存在している事実を知る事が、何よりも嬉しかったのだけれど。
だけどもう、それすらも叶わなくなる。
想子は手すりにかけた手に力を入れ、振り向きながら立ち上がった。
「いいのよもう。お願いだから放っておいて。これ以上私の中に入ってこないで!」
そう想子が叫んだ瞬間、彼女の背後でバキッと言う音がして、想子の体が一瞬浮いた。そしてそのまま美しい弧を描きながら、頭から湖へと落ちて行った。
「想子ちゃん!」
慌てて圭が駆け寄った時、水面には想子の羽織っていた白のカーディガンだけが残されていた。
圭は急いでジョンのジャケットを脱ぐと、ためらうことなく湖へと飛び込んだ。
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